2006年07月07日

ペットロス

今さらながら、ペットロスに陥っている。

病気のせいで、ディーは最期、短いながらそうとう苦しんだせいか、見送った直後は、これでよかった、あのコはいまごろもう痛みを感じていないのだ、と自分を納得させていたのだが、月日が経つうちにしだいにディーの抜けた穴がぽっかりと口を開け、失ったものの大きさに呆然としている。

我が家には、あいかわらずあれこれやらかしてくれる2頭の犬たちが残っているし、猫もふらふらしていたりと気を紛らす術はあるのだが、何匹動物を飼っていようが、いなくなったコの代わりにはならない。姫にブラシをかけながら、そういえばディーは管理人がブラシを持つとすっ飛んできて前に座ってブラッシングして、とねだったっけな、とかカイと引っぱりっこをして遊びながら、ディーがいた頃は、カイとこうして遊んでいると焼き餅を焼いて邪魔しに来たものだ、と思いだすたびに涙がこぼれてくる。

弔いの方法というのは人によってさまざまだ。浴びるように酒を飲んで悲しみを忘れる人もいれば、人に話すことで楽になれる人間もいるだろう。管理人の場合は、こうして文章を書くことで、少しずつ時間をかけてディーに別れを告げている。いまでも、ディーのお骨は管理人の枕元に置いてある。いつになるかわからないが、ほんとうに管理人が心からディーを見送る気になったとき、土に返してやろうと思っている。

1年ほど前のことだと記憶しているが、保護活動をしている人たちのあいだで、ある話が一斉に広がった。多くの人が自分のサイトに載せていたので、読んだ記憶のある人も多いとは思うが、うる覚えながらたしか、犬の世話をほとんどしない飼い主が獣医に持ち込んだ犬が、助かる見込みのない重病で、飼い主は犬を置いて帰ってしまって、見るに見かねた獣医が安楽死させたというような話だった。皆さんしきりと「こんな飼い主は最低だ」「こんな可哀想な犬を減らそう」と書いていたのだが、管理人はその話を読んだときなんとなく釈然としない思いがした。そのときは、何が心に引っかかったのか巧く説明できなかったが、ディーを見送ったいま、あのとき感じた違和感の正体がわかった。

たしかに世話をしない飼い主に重病の犬を戻しても、苦痛が長引くだけで安楽死させるのがもっとも人道的な処置だとは思う。最期にほんの少しでも人の愛情を感じさせてやれたのも犬にとっては幸いだっただろう。安楽死をさせた獣医にとってはできる限りのことをしたのだろうが、犬と飼い主にとってそれが最善の方法だったのだろうか、と考えたとき、管理人は疑問に思うのだ。

どんなにひどい飼い主であっても、犬にとっては自分の飼い主が最高の飼い主だ。犬は他犬と自分の環境を比べたりしない。予防接種をしてもらえなくても、安い餌や残飯を食わされていても、めったに声をかけてもらえなくても、散歩に連れて行ってもらえなかったとしても、犬はやっぱり飼い主に振り向いてもらいたいと欲している。1日に数分しか声をかけてもらえなくても、犬は1日中その瞬間を待っていて、尻尾を盛大に振って大喜びする。それが犬という生き物のすばらしいところなのだ。飼い主がたとえ1しか愛情を与えなくてもいつも100%を返してくれる。

そんな犬に人間がお返しできる方法はひとつしかない。最期のときに、黙ってそばについていてやること。死という姿の見えない敵に立ち向かっている家族のそばで一緒に戦ってやることだ。それは人間にとって、決して楽なことではない。できれば元気な頃の姿だけを覚えていたいと思うだろう。だが、そこで逃げるような人間は最初から生き物を飼う資格はない。命あるものは、いつかこの世を去っていく。その瞬間をきちんと見送る覚悟がないのなら、はじめから動物など飼うべきではないのだ。

だから管理人は、飼えなくなったからといって動物を捨てる人間、処分してくれと保護センターに持ち込む人間を軽蔑する。もしほんとうに飼えなくなったのなら、きちんと飼い主の見ている前で逝かせてやるべきだ。最期の瞬間、独りぼっちで不安のなかで旅立たせるような真似は決してしてはいけないのだ。たとえグッピー飼いでもいい、まともな餌を食べさせられなくても、外飼いでろくに散歩に連れて行ってやらなくても、きちんとしつけをして犬のニーズを満たして幸せな生活をさせてやらなくてもかまわない。だが、最期をきちんと看取ってやるくらいは、どんな飼い主だってやろうと思えばできるはずだ。その責任を放棄するような人間は、生き物を飼う資格などないはずだ。

飼えなくなった犬や猫を自分の手で殺さなくてはならないとなったら、もうダメだ、うちでは飼いきれないと思う人の多くはもう一度頑張ってみようと思うだろう。引っ越し先で動物が飼えない? そんなことは言っていられない。どんなに家賃が高かろうがペット可の住宅を探すだろう。しつけが巧くできなくて、手に負えない犬になってしまった? 飼えなければ自分で殺さなくてはならないのだ。それを回避するためなら、しつけが苦手なんて言ってはいられなくなる。

だから、無理を承知でいうならば、冒頭の安楽死の話も、どんなことをしても飼い主に立ち会わせるべきだったのだ。それこそ首に縄をつけてもその場に引っぱってきて、犬がこの世を去るさまをきちんと見せるべきだったと思う。犬にとっては見ず知らずの他人に囲まれて逝くよりはずっと安心できたはずだし、その無責任な飼い主にも命というものがどういうものかわからせる効果もあっただろう。それをせずに、ただ犬が可哀想だ、こんなひどい飼い主は許せないと騒ぐだけでは何も状況は変わらない。

ディーの死は決して楽なものではなかった。眠るように静かに息を引き取ったというのにはほど遠い。病気がわかったあとも、救ってやることはできなかったし、痛みを完全にとりさってやることすらできなかった。ディーの期待になにひとつ応えられなかった、ダメな飼い主だったと後悔ばかりの毎日だ。それでもたったひとつだけよかったなと思うのは、最期の最期にずっとそばについていてやれたことだけだ。最期にディーの瞳が見たものは、管理人と仲間の犬たちの顔だった。

管理人の記憶のなかから、ディーの苦痛にゆがむ顔が消えることはないだろう。それでも心静かにディーの冥福を祈れるような日が来るまで、管理人の弔いは続いていく。

【犬の十戒 10】
Go with me on difficult journeys.
Never say, "I can't bear to watch it ." or " Let it happen in my absence."
Everything is easier for me if you are there.

Remember I love you.


旅立ちの時には、そばにいて。
「見ているのがつらいから」とか「わたしがいないところで逝かせてあげて」なんていわないで。
あなたがそばにいてくれれば、ボクはどんなことでも耐えられる。

忘れないでね。あなたのことが大好きだよ。


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ニックネーム 犬猫屋敷の管理人 at 11:55| Comment(3) | TrackBack(0) | DJ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする